欲しくないはず
大人の体には肉が詰まっている。
私はそれがたまらなく嫌だった。大人の男がまとい、放つあの独特の苦しさが。
肉体の欲望や果てしない野望を捨てきれない無鉄砲さ、新聞の読みすぎで理詰めになった脳。
もちろん全ての大人がそれだけの生き物だと思ってはいない。ただ、一定数本当に存在し得るというだけの話だ。
全ての人々はそうなってしまう可能性がある身体を持ち運んで暮らしている。理屈でものを言うのが嫌いな人などいない。
大人の体には肉が詰まっている。
私はそれがたまらなく嫌だった。大人の男がまとい、放つあの独特の苦しさが。
肉体の欲望や果てしない野望を捨てきれない無鉄砲さ、新聞の読みすぎで理詰めになった脳。
もちろん全ての大人がそれだけの生き物だと思ってはいない。ただ、一定数本当に存在し得るというだけの話だ。
全ての人々はそうなってしまう可能性がある身体を持ち運んで暮らしている。理屈でものを言うのが嫌いな人などいない。
— Twitter / @daichi (via yuca)
(dc-epから)
20年間現役だったスーパーファミコンがついにご臨終となった。先月のことだ。スーファミを使っていたのは父親だった。将棋ゲームのためだ。ソフト名は「早指し二段 森田将棋(1993)」で、この森田将棋シリーズは1991年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝している。でも父親はコンピュータ相手にも余裕で勝てて「一番強いコンピュータのレベルを相手にして飛車角落ちでも勝てる」と言っていた。
スーファミはメンテナンスなんて一切無しで20年以上も動き続けてくれたがいよいよ壊れてしまい、俺はプレステ2を父親の部屋にセッティングして適当な将棋ソフトを中古で購入した。ところがプレステ2で将棋を指した父親が嘆いた。
「コンピュータに勝てない」
コンピュータのレベルを調べてみると、そのゲームで一番弱いレベルだった。
うちの家族はとても驚いた。スーファミよりも遥かに進化したプレステ2の頭脳に驚いたわけではない。父親はおおよそでも15年以上はスーファミの将棋をやり続けていた。うちの家族にとってスーファミで将棋する父親の姿が日常の風景だった。そんな父親がプレステ2の最弱レベルにも勝てないことに驚いたのだ。あんた強かったんじゃないのか。
父親が言うにはスーファミの将棋ゲームはコンピュータの指し方がパターン化されていたので勝てたらしい。15年間勝ち続けた父親は将棋をやっていたというよりも、必ず解けるパズルゲームをやっていたのだろう。将棋や囲碁やチェスは勝ち続けても強くならない。負けないと成長しない。だから最弱レベルのコンピュータに負け続けていた父親は3週間ほどであっという間に強くなり、今はコンピュータのレベルを上げて遊んでいる。15年間の勝利よりも3週間の敗北のほうが将棋的には意味のある時間だったのだ。
"—
おとうさんのスーパーファミコン | 破壊屋 (via atorioum)
オセロゲームでこれと似た経験をしたことがあります。
(via kikuzu)
(onoholidayから)
幼い娘は、弟が生まれるとすぐ私に赤ちゃんと二人だけにしてくれ、と頼みました。
私は、4歳児にとって赤ちゃんへの嫉妬の感情から赤ちゃんをぶったり、ゆすったり
するのではないかという危惧から、ダメと答えました。
でも娘は嫉妬などの感情を見せることもなく、赤ちゃんをやさしく扱い
赤ちゃんと二人だけにしてくれ、という願いはますます強くなるようでした。
とうとう私は折れて、娘の願いを聞き入れました。
娘は喜んで赤ちゃんの部屋に入り、ドアを閉めました。
私はドアをちょっとだけ開けて中の様子をうかがいました。
娘はゆっくり赤ちゃんの顔の上に覆いかぶさって、静かに話しかけたのです。
「赤ちゃん、神様ってどんなだった?わたしはもう忘れはじめてるの」
— pya! 神様 (via shrineroof, pocopoko)
2009-02-02 (via gkojay) (via 54kan) (via markie) (via slowleaner) (via takaakik) (via odaystm) (via wktksan) (via uessai-text) (via mitukiii) (via shinjihi) (via edieelee) (via evahss) (via quote-over100notes-jp) (via y-y-fd-t-gekidan) (via dc-ep)
— 外国人の(*´∀`*)ってなるコピペくれよ - まめ速 (via kiri2)
(元記事: acricket86 (908908から))
教師が発問すると「ハイハイ」と手があがり、一人を指名すると「○○です」
の答えが返り、それに「そうですね」と教師。「では、△△は?」またハイハイ…。「□□です」「違います。わかった人は?」…。
これでは、教師が「正しいこと」をにぎっていて、それに一致しなければ間違いで、間違いは恥ずかしいことになってしまいます。このような雰囲気の中では、教室は「間違い」を恐れる雰囲気になります。
教師は子どもに対して権威であると同時に一緒に自然を探究する同志です。
それに対し、子どもを自然の探究を一緒に行う同志ではなく、ただ教師の教授活動の受動的存在にしてしまっている授業、教師が握っている正解をただ確認していくような、あらかじめしかれたレールにただ乗せていくような授業もしばしばあります。
学習とは子どもたちにとって未知だからやることです。学習とは未知を既知にしたいから行う活動なのです。だから未知への課題への挑戦となります。間違ったって、それは当たり前のことです。
自然への問いかけて、結果として「間違い」となった考えに対してどう教師はフォローしたらいいでしょうか。以下はその具体例です。
・A君の意見は、実は○世紀まではそのころの大科学者がみんな考えていたことなんだ。
・昔、○○というえらい科学者がいて、その科学者が主張していたことと同じだ。
・A君の意見は、○○という条件のもとでは正しい考えだね。
・A君の意見があったから、問題がはっきりしたね。A君の意見も成り立つなあ、なんて頭の片隅で思っていた人も多いんじゃないかな。A君はその代表だったんだ。
・実験では、A君の意見は間違いだってわかったけど、A君の意見ってすごく
説得力があったでしょ。これからもA君のような鋭い意見がどんどんでるといいね。
子どもたちが何でも言える雰囲気をつくるには、少数意見を大切にし、ある意見を馬鹿にするような笑いや言葉にはきびしく対応し、ひとそれぞれの精一杯の意見をしっかり聞くようにさせる必要があります。
子どもの頭は「白い紙」のようなもので、その上にいろいろなことを書き込んでやる過程が授業である、と考えている教師がいます。白い紙だなんてとんでもありません。もうすでに生活の中で、学校教育の中で、いろいろなことが書き込まれているのです。そういう子どもたちの意見にはそれぞれ根拠があります。それぞれの意見を受け止める姿勢をもつ必要があります。
教師と子どもの人間どうしの共感があふれた雰囲気をつくりましょう。
"— お話授業で引き込むためには(教育方法論・資料) - samakitaの今日もガハハ (via petapeta)
(chicchi0411から)